1.軽井沢とキリスト教宣教草創期
ショー師が訪れた1886年よりさかのぼること1605年イエズス会の京都修道院長、ホレモン師が修道士を伴ってこの地を巡察に訪れたことが、軽井沢における宣教活動の始まりであると言われる。厳しい禁教時代であったが、イエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会の崇高な会士達は日本に残留し、宣教活動を続けていたが、1614年の大追放により、4045名の大量殉教者が出たといわれる。それから苛烈きわまるキリシタンの大迫害時代へと突入するが、その最中においても宣教師達はこの地において布教活動を継続したといわれている。追分の泉洞寺墓地には十字架を刻んだ墓石が現存、分岐れにはマリア観音と称される秘密めいた石仏が今でも建っている。幕府は1870年浦上の信徒300余名を流刑にしたが、これを最後に1873年長期に亘るキリスト教の禁教が解放された。信教の自由が保証され、十字架に燦然と陽光が輝いた瞬間である。




(墓石に刻まれた十字架)


2.軽井沢宣教の序章
1886年軽井沢に訪れたショー師は、故国に似た風土が気に入り、数多くの外国人にその素晴らしさを伝えると同時に、軽井沢別荘第1号となるショーハウスを軽井沢、直江津間の信越線が開通した明治21年(1888年)大塚山に建設。以来軽井沢は宣教師たちの交流の場所となり、その後避暑地として開かれていくことになる。日本聖公会の軽井沢教会(現軽井沢ショー記念礼拝堂)は当時の主教ビカーステスによって明治28年(1895年)に献堂。大正11年に増改築されました。

キリスト教各派に注目されたこの地は、英国聖公会はじめ、救世軍、福音派、ギリシア教会、バプテスト派、クェーカー新教派、ナザレン派、ルーテル派教会など多くの聖職者が各地域から寄り集まっていた。旧軽井沢の大通りを歩く西洋人には聖職者のしるしであるローマンカラーが目立って多かったという。

アメリカ人のチャバレン師が「予は夏季のこの地を見るために滞在したが、さながらコスモポリタンの集合場であった」と書き遺している。英国人、カナダ人、フランス人、ドイツ人、インド人、支那人が多く、クェーカー新教徒を含む各派が非常に親しく交わっている、真に奇妙な光景に接した」と述べている。


(ユニオンチャーチ)


やがてキリスト教各派は合同で諏訪ノ森に明治30年(1897年)ユニオンチャーチを設立。軽井沢ユニオンチャーチは、地域の住民から「軽井沢の村長さん」と呼ばれ親しまれたダニエル・ノルマン宣教師によって活動を開始しました。

当初立ち上げに尽力した開拓宣教師たちの中には、有名な建築家ヴォーリズ、アメリカの駐日大使エドウィン・ライシャワー氏の両親であるA.R.ライシャワー博士と夫人を挙げることができます。

もともと官営鉄道の高級技師用クラブハウスとして建てられた建物を買い取り、改装した後、現在の教会として1906年から使用されています。教会の規約もこの時に成立しています。

そして1905年には日本人教会としては最初の超党派の合同教会である日本キリスト教団軽井沢教会が開設。旧軽井沢の銀座通りに位置する会堂はW.M.ヴォーリズの設計といわれています。付属の幼稚園は1916年に開設されました。

1915年頃になると旧貴族、特権階級の別荘が随所に建ち、彼らの兄弟姉妹達は三笠別荘、正田英三郎家別荘などに集まり祈りを捧げ、完璧な賛美歌を合唱したといわれる。同時期に英国人神父ウォード師が現れ、大通りの旧本陣跡に建った「軽井沢ホテル」に逗留。ホテルロビー内に仮祭壇を設けて主日ミサを捧げ、別荘地の兄弟姉妹を招じたといわれる。まさしく最初の、軽井沢カトリック教会である。ショー師と同時期に軽井沢での宣教の足掛かりを作られた、東京大司教の最高位聖職にあったローマ伯爵ペテロ・レイ司教は生涯を軽井沢で過ごされ最後は英国人信徒マンロー博士の手厚い診療を受けて軽井沢の美しい風光に抱かれ、崇高なる生涯を終えたといわれる。ペテロ大司教の死去、それが同時にカトリック教会にとって軽井沢再宣教の序章となった。それは前述の通りこの年東京大司教座付英国人ウォード師が「軽井沢ホテル」において異常なる熱意をもって絢爛たる宣教の準備を整えたからである。


3.聖パウロ教会堂建立
ウォード師は聖地軽井沢に主の聖堂を捧げたいと願い、英国王室とも繋がりを持つロンドンの生家より付与金を受け取ることになる。彼が主日ミサを捧げたホテルの西脇の森がホテルの所有地であったことが分譲に際し好都合であった。また、信徒にA・ライモンド夫妻を見いだしたことはいっそうの幸運といえた。1934年ヒットラーが総統になり独裁政治を始めた年である。

尊敬やまぬウォード師から委任を受けたA・ライモンドは感激のうちに、敷地に当てられる甘美な森を見、落葉松の立木や、樅の林に踏みいって幾度も注意深く森の周辺地を観察した。その数日後、彼は自分のアイデアをスケッチに描いてウォード師に呈示した。デッサンには素朴な聖堂が描かれ、高原自然景観とよく釣り合いがとれていた。ライモンドは遠い祖国チェコスロバキアに思いを馳せ、生まれ育ったグラドノ地方の森をしのびながら、情熱を込めて取り組んだという。造営作業に従事するスタッフの大工はすべて東照宮の修営にたずさわった栃木県の宮大工を物色し、日光から招請したという。日本人の精神と伝統ある棟梁の技量を木造建築の中に取り入れることを看過しなかったのである。後年、日本芸術院賞をうける東京芸大名誉教授 吉村順三が現場助手としてここに才幹の片鱗を発揮することになる。パウロ聖堂の塔上に釣られた見事な鐘も彼が横浜から物色した物である。ノミエ夫人は祭壇裏窓や左右の小窓に和紙の切り抜きを美麗に刻んで丁寧に貼り、表面に置かれる聖パウロの堅固なる塑像を心血注いで制作。

かくて崇高きわまりなき聖パウロ聖堂は見事に竣工するや、おびただしい人々から賞賛の的となったのである。アントニン・ライモンドはこの聖堂造営によって認められアメリカ建築学会賞の栄誉に報われたのである。

「私はいつも、ながいこと聖パウロ教会の前に佇んで、その美しい尖塔を眺め。見入りそして自分の心の充たされるまでそれに愛撫された」堀辰雄「木の十字架」こうして聖パウロ教会はすぐれた文学や美術の対照となって発表された。



(聖パウロとコンラッド神父)


4.第二次大戦の悲劇
第二次世界大戦に突入した時期、聖パウロ教会を軽井沢に奉献したウォード師は敵国人と指名される英国人であったが故、追放を余儀なくされるはめにたち帰航は回避不可能となった。祖国の地を踏むこともなく、再び日本に帰ることもなくこの時が軽井沢との永久の離別になる。港を出港するや、戦火に荒れ狂う太平洋上で、彼は病に倒れその生涯を閉じることになるのである。


5.大日向教会の成立のあらまし
軽井沢と教会の歴史の中で忘れてはならない歴史の一つとして大日向開拓部落とカトリック教会の関係にふれておかなければいけない。終戦後中国から引き揚げてきた引き揚げ者が浅間山麓の現大日向地区に入植したのは1946年のことである。

標高1050メートルの高地は火山岩層の荒れ地で、冬は浅間おろしが吹き下ろす酷寒の地であった。血のにじむような開拓の歴史は想像を絶するものであったという。こうした時代、掘っ立て小屋に住み、火山荒れ地で汗を流して働く一群の人たちを深い尊敬の念をもって見ているカトリックの神父がいた。1951年初夏のことである。

師は慈愛をもって一群の労働に聖旨にかなう方法をもって何らかの力添えが出来ないかと考えた。この接触が開拓地とコンラード神父を結び、深い関わりを持つことになったのである。


彼は開拓地の一隅に託児所の開設を思い立った。開拓団の人々はこの申し出を拒絶しなかったという。なぜなら、当時作業中足手まといになる幼児達は切り株や、杭にひもでつながれていたのである。そのうちに聖クララ修道会のメキシコ人のシスター達が保育の奉仕にあたってくれた。

コンラード師は馬小屋の脇を借り受けて移住し、聖ヨゼフ保育園を建設して開拓地への贈り物とした。一台のジープにアメリカンフレンド奉仕会による中古子供服、玩具、靴など様々な物資を運んで分け与えた。共同作業中の負傷、夜間の急病人などジープは救急車替わりに活躍した。

軽井沢の西、大日向の開拓地区におけるカトリック神父の存在は村民にとって忘れられぬものとなり、辺境地の児童福祉、幼児の教育施設等多大な功績を残したのである。



(大日向教会)



(コンラッド神父)


6.軽井沢教会挙式の幕開け〜聖パウロカトリック教会
1960年マヒナスターズのメンバー2名が6月22日二組そろって聖パウロ教会で挙式をあげた。この二組はひっそりと結ばれたのであるが、聖パウロ教会にとっては吉兆となった。

その後1970年、芥川也寸志と江川マスミが挙式。也寸志は軽井沢に由緒深い作家である芥川龍之介の三男であり、彼自身著名な音楽家であった。翌年1971年2月21日、西郷輝彦と辺見マリがカルロス師の司式で結ばれた。続いて3月12日林隆三と青木一子が、また、林正和と森山加代子と引き続いて聖パウロ教会より多くの芸能人が門出した。その後、吉田拓郎など芸能人達の相次ぐ門出を丁寧に挙げると枚挙のいとまもないがマスコミは集中的に取りあげた。神が教会堂に付与した新しいイメージの誕生である。

かくして人生の門出とする若い人たちの衝撃波が大きなうねりとなって軽井沢に押し寄せたのである。軽井沢の教会ウェディングの幕開けである。


7.最後に〜清浄軽井沢の伝統と歴史
軽井沢。この心地よい響きを感じさせてくれるこの土地は、先人たちが育んで来た歴史の賜物です。ショー師が開いた避暑地軽井沢が、戦後大きな変貌を遂げ、国内トップクラスの国民的な保健休養地として脚光を浴びるに至った第一の要因は、1世紀前のあの「緑したたる山野と清澄な風光」が自然の荒廃の加速度的な進行の中にあっても、唯一今まで見事に維持されてきた事にあります。
その大きな力になったのは、ショー師を始めとして以後多くの宣教師たちが訪れ、彼らの清潔簡素な生活環境の自治的心がけが、清浄軽井沢の伝統に結びついたと言っても異論はないと言えるでしょう。


(1)軽井沢と宣教師たち
当時、軽井沢の住民は外国人宣教師とその家族が大半であったためキリスト教的風潮が自然に広まったと言えます。その結果「娯楽を人に求めずして自然に求めよ」という精神が根付いたのである。
1916年には軽井沢の俗化を阻止し、軽井沢らしさを守り抜こうとする人々によって「軽井沢避暑団」が結成され、会長には「軽井沢の村長さん」と多くの人々から人望を集めた宣教師ダニエル・ノーマンさんがその職に就いた。避暑団は「軽井沢憲法」を制定し、「飲む、打つ、買う」の追放に努めた。
1922年には避暑団の日本人有志によって軽井沢集会堂が建設され、講演会、音楽会、展示会など文化活動に多大な貢献を果たしてきました。

(2)浅間山米軍演習地反対闘争
終戦後の1953年、米軍は突如軽井沢町役場を訪れ、浅間山麓一帯を軍事演習地とするよう要求してきたと言われる。これに対し軽井沢の住民は一致結束して反対行動に立ち上がった。浅間山米軍演習地反対闘争は長野県民200万人の大反対運動に発展、日本で唯一基地化の阻止に成功した。この成功によって、今日の軽井沢の自然と平静が守られた功績の大きさは見逃すことが出来ません。

(3)戦後の軽井沢
1951年「軽井沢国際親善文化観光都市法」を制定。続く1958年には「軽井沢の善良なる風俗維持に関する条例」が制定され、風俗営業は禁止となった。翌年「皇太子・美智子妃ご成婚」報道に国民が沸き立ち、ロマンスの舞台になった軽井沢のテニスコートがその後の軽井沢のテニスブームに火をつけた。夏はテニス、冬はスケートと多くの若者が訪れ、健全なる保健休養地としての軽井沢の位置づけが確立された。
ここ数年、高速道や新幹線の開通により首都圏の通勤圏に入るや、全国的な地価暴落も加わり、自然保護の対象外にあった共同・集合住宅などの造成が急速に進み、保健休養地軽井沢の貴重な景観が損なわれかねない状況が生まれてきました。軽井沢町は急速に増加しつつある共同・集合住宅などの建築に歯止めをかけるために、その基準を定めた「軽井沢町の自然保護対策要綱」の一部改正を行い施行しました。
人口おおよそ1万7000人、世帯数6800あまりの軽井沢町に、夏期だけでも毎年約450万人の観光客が訪れ、別荘は1万3000戸以上になっていると言います。「要綱」の一部改正と施行は軽井沢を「国際親善文化観光都市」として末永く維持し、後生に継承してゆくためにも大切なものと言えるでしょう。

外国人宣教師が開いた軽井沢を今度は私達日本人が守っていく。国内外の共有財産といっても過言ではない軽井沢の歴史は私達に多くのことを語りかけてくれます。

(1891年二手橋付近)





(1913年銀座通り)






参考文献:軽井沢地区カトリック教会史
(1980年フランシスコ会コロンビア管区発行のコロンビア管区25周年記念誌)
軽井沢散歩24コース(軽井沢散歩の会編・山川出版社)
その他各教会関係の文献を参照させて頂きました。

写真提供:土屋写真館、軽井沢地区カトリック教会史


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